イナキの歴史そして未来へHISTORY & FUTURE

人と運に恵まれた海外展開。
海外展開の歴史

EPISODE 2

インドネシアをはじめとした海外展開の裏には、
人の出会いと幸運に恵まれた出来事がありました。
そこで海外展開のキーマンである徳永元専務から、
当時の思い出やエピソードについて語っていただきました。

インドネシア編

好機に恵まれてスタートしたインドネシア。

インドネシアに「PT. NESINAK INDUSTRIES」(ネシナック)を設立したのは、1997年(平成9年)でした。当時、我が社程度の企業規模での単独海外進出は実にリスキーな時代でした。しかし、人との縁と幸運に恵まれ展開することができたのです。

きっかけは、お客様であるセイコーエプソン(株)様(以下「エプソン様」)からお声掛け頂いたことに始まります。その内容は、「エプソンのインドネシア工場の敷地内にサプライヤー用の工場を建てるので、ぜひともインドネシアに来てほしい。」というご提案を受けた事でした。

それまで自社単独での海外工場展開は経験がなく、海外での工場設立、生産工場の運営について自信はありませんでした。しかし、この話を頂いたときに、「まさに、今がチャンスだ!」と確信し、工場内装工事などは自社で行う条件がありましたが、インドネシアへの進出を決意しました。

そして、このプロジェクトは、若手社員を中心に各部門から選抜し7名のチームでスタートしました。 当然のごとく海外における現地法人の設立、生産体制の確立、現地での生産、スタッフの採用、すべてが未経験です。しかも日本語はもちろんの事、英語すらまともに通じない状態でした。そんな我々が、何とか工場を稼動させるまでに至ったのは、いくつもの出会いと幸運に恵まれていたことにあります。

生産技術に関するノウハウについては、ありがたいことに協力会社からの技術レクチャーを受けることに。また、運の良い事に内装工事にかかる膨大な費用は、当年秋のタイから始まったアジア通貨危機によるインドネシア通貨「ルピア」が暴落したことで、結果的に1/3まで軽減できました。

そして、何よりも大きかったのが、有り難い人との出会いがあったことです。まず一人は、現地で生産工場の工場長の経験があり、インドネシア語が堪能であった「市川氏」。 もう一人は、親日家であり、頭脳明晰の上、全幅の信頼を寄せられたインドネシア人の「ロビアント氏」です。工場が無事に稼動し、運営に至ることが出来たのも、彼ら2名の存在が欠かせませんでした。

正直、お客様のプロジェクトの一貫でしたので、「失敗が許されない」というプレッシャーはありましたが、私たちが若かったこともあり、のびのびと自由にやれた事が良かったのではないでしょうか。

試行錯誤の末、始動したインドネシア工場ですが、おかげさまで操業開始の時点から売り上げが好調でした。しかも、以後、(株)デンソー様やアイシン精機(株)様といった、国内でお世話になっているお客様方からも自動車関連部品を受注することができ、予想以上にすべてが好調に進んだことで、4年目にして別エリアに自社工場を設立するに至りました。

  • 徳永は当時36歳。絶対に失敗できないインドネシア進出に全てを懸けた。
  • 7名でスタートした「ネシナック」。現在800名以上の従業員が働く。

フィリピン・中国・ベトナム編

狭小地の工場からスタートしたフィリピン。

次に手がけたのはフィリピンでしたが、インドネシアの時とは少し状況が違っていました。ここでもエプソン様の仕事を当て込み、同じ工業団地に工場進出を目論むのですが、当然工場は自前、しかも、建設開始時点での部品受注の確約はもらえない。さらに、競合他社も参入して来るという、設立後の先が見えない状態でした。

しかし、別案件で多少の自動車関連のお客様向けプラスチック部品の受注見込みもあり、今後のコスト戦略も考慮しアジア2か国目の工場進出を決定。1999年(平成11年)、まずは狭い土地に工場を建て、ミニマム規模で「PHILINAK INDUSTRIES, INC.」(フィリナック)をスタートさせました。

このプロジェクトに関しても、スムーズに進められたのは、プラスチック工場運営の経験があり、タガログ語が堪能な「水谷氏」との出会いがあった事、現地で優秀な責任者「ジョセフ氏」との出会い、ここでもまた、人との出会いに恵まれました。 さらに、インドネシアでの会社設立、工場運営の経験があったことから、現地法人の設立から採用までスムーズにいきました。

そうはいっても、ミニマム規模でスタートしてからの数年間は、売上が大きく向上することはありませんでした。しかし、状況が好転していくことになったのは、エプソン様が中国からプリンター生産をフィリピンに移した結果でした。また医療関連のお客様の仕事も始め、クリーンルームでの成形とアッセンブリーを可能にした事も受注増につながりました。

そして、フィリピン設立から13年後には第二工場を設立し、今では現地スタッフが1,000人規模にまでに成長し、現在では業界関係者からも注目を集める存在となり、当社グループの海外生産の一大拠点となっています。本年20周年を迎え、既に第三工場建設の計画も立てております。耐える時期もありましたが、フィリピンに展開したことは正解でした。

ブーム前に市場参入できた中国展開。

インドネシアからフィリピン、次は中国となりました。ただし、これまでの東南アジア圏とは異なり、ご承知のとおり体制の違い、法律の違いから、「一筋縄ではいかないだろう」という感覚がありました。そこで紹介していただいた香港人のパートナーとともに、2002年(平成14年) 中国広東省・シンセン市に合弁工場「稲木科技有限公司」を設立しました。

海外展開で重要なことは、受注の目途をつけてから計画を実施することです。その点、幸運だったのが、ここでもエプソン様の電卓プリンターに使う特殊印字ゴム(活字輪)の生産があったことです。従来この部品は、当社の日本国内での生産品でしたが、エプソン様からの強い要望もあり、中国現地生産へと切り替えることにしました。 中国での人件費がまだ安かったこともあり、その後の中国工場での売上:利益の大きな柱となりました。

価格競争力を武器に米国、日本等へ順調に売り上げと利益を伸ばし、その後 更に価格競争力を求め、2010年(平成22年)に中国 湖南省 チェンゾウ市に稲木科技チェンゾウ工場を作りました。

その後シンセン工場が人件費高騰となり、2015年(平成27年)にはシンセン工場の全ての生産をチェンゾウ工場に移管し、何とか生産を継続する事が出来ました。
2000年代に入ってから中国ブームに沸きあがり、どの日本企業も市場参入してきました。少し早い時期に進出できたことで、よい波に乗れたと思います。現在、成形機を100台ほど所有し、現地スタッフは1,000人を超え、当社海外法人でも屈指の規模へと発展しています。

可能性を求め、新たな地としてベトナムへ。

次の拠点として考えたのがベトナム。当時日系中国工場のあらゆるリスク回避の新しい工場進出地とし、チャイナプラスワンとして注目されていました。
我々もアジア圏でより安い人件費の国として注目していましたので、2009年(平成21年)詳細な調査を行ったうえで、事業計画書を作成しましたが、「リーマンショック」発生でこのプランは頓挫しました。

しかし、お客様である、住友電装(株)様からお声がかかったことにより、計画を再始動させました。 自動車部品であるワイヤーハーネスの生産にあたり、関連部品の受注に目途がついたことから、本格的に進出することになりました。

2011年(平成23年)、「VIETINAK CO., LTD.」(ベティナック)がスタート。順調に受注を続け、今や第二工場を設け800人規模のスケールとなっています。

こうして振り返ったとき、チャンスを逃さずに決断したこと、さらにお客様に背中を押してもらったこと、よい出会いがあったことが、海外展開を推進し、順調に軌道にのせることができた最大の要因だと思っています。

さらに、本来、商社であるゴムノイナキが海外においてもメーカー機能を備えたことで、お客様、仕入先様に対して「単なる商社ではない」ことをアピールできたと自負しています。また、年を重ねるほどに、国の内外を問わず、お客様に信頼して頂ける会社としての実績も積み重ねてこられたと思っています。
もし、あの時、海外展開のチャンスをもらっていなかったら、そして断行していなかったら、当社は今どんな状況になっていたかはわかりません。

  • 厳しい条件でスタートしたフィリピン「フィリナック」の設立。
  • 新たな可能性にむけて「ベティナック」(ベトナム)へ進出。

PROFILE

元専務取締役 徳永 秀夫 1961年(昭和36年)生まれ。1985年(昭和60年)入社。
常にクライアント側の気持ちになって問題解決を実践する抜群の営業センスと決断力でゴムノイナキの海外進出の礎をつくったキーマンである。

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