イナキの歴史そして未来へHISTORY & FUTURE

グローバル技術商社のはじまり
技術研究所の歴史

EPISODE 4

ゴムノイナキに欠かせない存在である技術研究所。
創成期の頃から深く関わってきた青山顧問から見て、
どのように進化してたのか。当時のエピソードを交えながら、
歴史を振り返っていただきました。

高度成長期とともに高まるゴム製品の開発ニーズ

入社時は、7名だった技術研究所。

私がゴムノイナキ入社したのは1974年(昭和49年)。技術研究所が設立されてから3年目のことです。大学でゴムの研究をしていたこともあり、ゴムノイナキの技術研究所で働くことになりました。当時の技術研究所は、所長を含め男性7名とアシスタントの女性が1名というメンバー構成でした。

技術研究所建物の一階に試験設備と所員のデスクがあった位の規模でした。『こんなゴムはできませんか?』というお客様からの開発依頼の対応と製品のトラブル解析とその対策。工場で量産されている材料の定期的な物性確認試験の業務が主体で、新人としてはテストピースの成形(当時は試験用のテストピースではなく、材料の状態で送られてきていました)と物性試験の日々でした。

のちに開発業務へと仕事の内容が変わっていきましたが、当時は合成ゴムでの日本の研究の歴史は浅く、第二次世界大戦後からの取り組みで30年もたっていませんでした。 現在合成ゴムの主流となっている「EPDM」材が上市され使用が始まったのは入社してから何年か経ってからでした。当社の研究所も出来て日が浅く、ゴムの実使用に参考になるバックデータが圧倒的に少ない時代でもありました。ゴム製品の開発は原材料の組み合わせと比率を求める材料配合の検討が基本となりますが、当時は求められる物性も硬さや強度など標準規格が主体で、ゴム部品に要求される特性レベルは今ほど高くはない時代でした。

モータリゼーションにより、ゴム製品の要求が高まっていった。

やがて研究所も、一階が試験設備のフロアー、二階が事務所と 機器も人も増えてきました。業務の内容も材料配合検討だけに留まらず、形状設計や評価試験へと変化していきました。それが大きく変動していくきっかけとなったのが、1960年代から始まったモータリゼーションの著しい進展です。日本経済が高度成長期に入るに伴って、「マイカーブーム」が到来し、自動車の販売台数が増加。アメリカを追い越せと言わんばかりに、国産車もどんどん性能が高まっていく中、それに組み込まれるゴム製品に対するいろいろな要求も高まり、製品も多様化していくことになり、新規ゴム部品の開発のニーズも急速に高まっていきました。

1970年代前半、アメリカでマスキー法という排気ガス規制法が施行され、1978年には日本もこれに追従すべく、新たな開発と製品化が求められました。例えば、「排気ガス再燃焼方式」はこの頃から始まった方法ですが、その吸気側装置の部品として、PBTとシリコーンゴムように高機能なプラスチックとゴムの複合部品などを世に出すことに成功しました。また、このころは、「カーエアコン」ではなく、冷房機能だけの「カークーラー」をオプションとしてダッシュボードに外付けするタイプが主流でした。それが時代とともに自動車と一体型となり、「カーエアコン」として装備されるようになってきました。 製品の小型化や快適性、機能向上、フロン規制、代替フロンへの変更など目まぐるしい技術革新の中、それらに使われるゴムやプラスチック製品にも、機能向上、耐久性、信頼性などの要求がどんどん高まっていきました。車に搭載される装置の機能が向上するにつれ、今までになかった新たな製品開発のニーズが激増しました。

おかけで、悠長に開発している時間はなくなりました。期限まで開発できる確証のない中、間に合わせるために時間を惜しまず開発を進めるしかなく、時に求められる結果が出ない場合には、原点まで立ち戻り、プロセスを見直しながら開発を進めることも多々ありました。常に研究と勉強をしながらの日々でした。日本全体がそうであったように、それこそ「24時間体制」で対応し、家に帰れない日もありました。それでも次から次へと開発検討テーマが湧いてくる時代でした。

評価設備も基礎実験用から信頼性試験で機能評価できるものも必要になり徐々に機器の種類も数も増えていきました。中には自分達で装置を考案・作成して進めたこともありました。ちなみに、開発と同時に大変だったのが報告書の作成です。今ならパソコンソフトを使えば、グラフやデータを簡単に集計して、そしてキレイに印刷してくれます。 しかし当時は、データの算出からグラフ作成までが、すべてが手作業でした。手書きで数値とグラフを満載した報告書を3日がかりで作成することもざらでした。おそらく、今の若い研究所員には想像もできない事でしょう。

  • 青山が研究開発に没頭していた技術研究所棟 今でも残る50年前の建屋
  • 今も青山が研究を続ける現技術研究所棟

メーカー以上にメーカー機能を発揮できる商社

設計開発と品質保証。活動の場が広がっていった。

時代とともに私たち研究所員の役割は、単なる試験や開発をするだけに留まらなくなりました。当時は取引先様との窓口は営業と技術研究所しかなく、技術的なサポートは研究所が一手に引き受けていました。材料の開発、形状も含めた製品開発、トラブル対策など仕事の領域がどんどん広がりました。更に、量産工場での生産設計、生産性向上のための技術的支援も重要なミッションとなりました。そして、技術研究所からは、時代の要求に先んじて、金型技術、生産技術、CAD/CAM、設計開発、などの専門部署を産み出し、それぞれの技術の向上と、ノウハウの集約に努め、約50名のスタッフを有する「技術部」へと進化しました。 また、トラブルの対応には「品質保証部」が技術部と連携して、きめ細かい対応を行う体制になりました。

こうして振り返ると、技術研究所の活動が多岐に渡るようになったのは、ゴムノイナキという会社の「ポジションの取り方」が大きかったと言えます。ゴムに関わる業界を見渡したとき、自動車や家電などの大手メーカーが存在し、そこで求められる製品や部品を提供する商社や製造会社があります。 そうした業界の中で、当社は単にモノを提供するだけの商社ではなく、画一化された製品を作る生産工場でもない。その両方の機能を発揮できゴム業界のなかでも「絶妙なポジション」の企業であったからこそ、様々な商品の調達や自社で設計開発や生産工程、品質保証の技術対応できることで、多くのお客様の信頼を得られたのだと思います。

大手ユーザーさんとの共同開発を行うことで、自社の開発力が向上する機会も多々ありました。時代とともに家電製品から住宅設備、自動車まで多岐に渡る製品づくりに関わったことで、多彩なノウハウが蓄積できていると思います。

過去には大きなトラブルも経験しました。しかしそれらは、私にとっての思い出深いエピソードでもあります。たとえば、モーターの配線用の保護ゴム。生産工程にて「電気を通すゴム材料」が混入してしまい通電してモ-ターが停止、システム機能不具合を起こしそうな状況になりました。即刻、原因と対策を検討するチーム、既に納品した製品を各地に出向き確認し不具合品は交換するチームに分け、ゴムノイナキ全社を挙げての対策活動を敢行しました。 製造された不具合品の数は少なく、ほぼ回収でき、幸い市場での問題は起きることはなく、大きな補償問題にはなりませんでした。その後、エンドユーザー(大手カーメーカー)の設計の方の「工場監査」(当時では非常に稀なケースでした)があり、工場の整備や清掃、説明資料作成などで、多くの社員が泊まり込みで生産工場の方と一緒になって準備を行い監査対応したことがありました。以後工程管理基準の見直し、管理方法の追加等の再発防止の展開、材料は色を変え識別できるように黒からグレーにした経緯があります。

住設関連では、「家庭用ソーラーヒーター」のジョイントホースの不具合がありました。当時、同様の用途で実績があったEPDM材の製品が、水道水に含まれる「殺菌剤の塩素と熱」の影響でホースの内側が想定外の劣化を起こし、風呂に入れたお湯で「黒い水が出る」という問題が起こりました。ゴムに配合される「カーボン」が、その使用環境では劣化が促進され分解して浮遊物となることを判明させました。当時お客様は新潟から下関まで点在していてお客様に原因と対策を説明するため、全国行脚をした記憶があります。最初は『水道水でゴムが劣化するわけがない。製造工程に問題があるのではないか』と全く信じて頂けないお客様もいらして苦労したことを覚えています。その当時はカーボンレスで材料を作成して対策していましたが、その後は「業界の常識として」水回り用途のゴム部品では、耐塩素性試験が設定・標準化され、耐塩素性材料もカーボン配合でありながら耐えられる材料が製造されています。

2代目社長の先見性が、まさに実証された。

今だからこそ技術研究所の創業期から関わってきた一人として、強く感じることがあります。2代目である稲木栄太郎社長が「販売会社に技術研究所を作る」という英断をされたことです。

自社に技術研究所があったからこそ、お客さまにもあまり認知されていないゴム分野で鉄や樹脂に比べて理解し難いゴムの性質・特性を踏まえた提案や設計、評価方法の立案:実施、生産工程での問題点の抽出や解決策の提案などが行えるように成長できてきたこと。ポリマーや資材メーカー、各研究機関などと幅広く情報交換ができるようになってきたこと。(当時ポリマーや資材メーカーさんとの付合いは技研だけであった)自社の評価設備で評価ができることで技術面からの活動が出来るようになり早い対応がとれるようになってきたと思っています。技術研究所は当社の営業を根底から支える存在となってきました。

ゴムそのものは、現在でも解明されていない領域があり、未知なる素材にはかわりありません。これまで培ったノウハウをもとに開発を続けていくことで、素材としての可能性が広がっていくことでしょう。そして、技術部のより一層の活動が、ゴムノイナキの更なる発展につながることに期待しています。

  • 青山が利用していた懐かしい試験設備
  • 昔から使われ今でも現役の試験設備

PROFILE

顧問 青山 裕充 1952年(昭和27年)生まれ。1974(昭和49年)入社。
顧客の要求にあった製品開発の為には全身全霊で取り組むことをモットーとし、技術研究所が設立された3年目に配属、まだまだ未知の可能性が広がるゴムの研究開発を進めてきた。「メーカー機能を備えたグローバル技術商社」であり続けるために、自らの経験と物事を広い視野でとらえる大切さを社員たちに伝えている。

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